ソウォン/願い

“小学校への登校中に暴行事件に遭い、重傷を負ったソウォン。
彼女とその両親が心に受けた深い傷を周囲の人々の理解と励ましによって回復する過程が丹念に描かれます。緊急の手術が行われ、命は取り留めたものの、さらに苛酷な運命が待ち受けていた。そのうちの一つは、犯人の特定のために、まだ病床にある彼女に警察が聴取を行い、調書を取るというものです。心理療法士のチョンスク(キム・ヘスク)が、ゆっくりと時間をかけて彼女とのコミュニケーションを取り、犯人の決め手となる証言を得ます。
一方、ドンフンとミヒは新たな危機にも見舞われていた。ミヒは病院内で倒れ、妊娠5ヶ月であったことから大事を取るためにそのまま入院です。
また、事件のショックからソウォンはドンフンを避けるようになっていた。多額の治療費も重くのしかかる。そんな一家を支えたのがクァンシク夫婦です。そしてチョンスクは、ソウォンだけでなくミヒの心の治療にも携わります。
ソウォンの心の回復に一役を買ったのがテレビの子ども向け番組のキャラ、ソーセージのココモン。このココモンの着ぐるみにはいってドンフンが無言のコミュニケーションをするシーンは笑いつつ泣けます。
幼女暴行事件という重いできごとを扱っているが、この映画の主題は事件そのものよりも、その後の傷ついた心の再生にあります。”

アデル、ブルーは熱い色

“アデルには全身にみなぎるような生命力を感じさせる。食べるときも、恋するときもむさぼるようにエマと愛し合うときもです。
二人の育った家庭環境も対照的です。
選りすぐりの生牡蠣と白ワインでもてなすエマの両親です。
アデルの父は得意料理のスパゲッティ・ボロネーズを振る舞い、「絵描きじゃ食えないだろう?」。そんな両親の元で育ったアデルも堅実に教師という職を選ぶます。
教師として働きつつ、エマの伴侶として、ミューズとしてともに暮らす日々です。
しかし、エマの個展のオープニングパーティーに集まったエマの仲間の議論には加わらない。パーティーの料理を客に給仕して回ることにかまけて忙しいというように。
そんな二人の間のズレが、つらく苦しい第二章の幕開けの伏線となります。
長い映画です。でも、長さを感じさせないです。
ただただ、アデルの喜びも苦しみもともに呼吸する3時間です。
アデル役のアデル・エグザルコプロスとエマ役のレア・セドゥの、文字通りの熱演です。
「クスクス粒の秘密」のダンスシーンの長さにもやられましたが、この映画でもラブシーンがこれでもかと言うほど長いです。
でも、その長さが必要だったのだ。
半開きの口からウサギのような大きな前歯を見せるアデル・エグザルコプロスです。
レア・セドゥーの口は小さく、歯も小さくて隙間が空いている。目元が赤くふくらんでいて、わざとそう見せていたのか、大写しになると美人には見えないんです。
ところが、別の映画に出ていたときは、可愛く見えたのだから、女優って不思議です。 ”

マルティニークからの祈り

“映画は、主演女優のチョン・ドヨンがさすがにうまくて引き込まれた。カリブの底抜けに明るい空と、厳しい環境と。夫とようやく再会できたときには、言葉もなくくずおれるところ、終盤の裁判シーンも圧巻でした。囚人同士、心を通わせるシーンなども。映画としてはハッピーエンドだけれど、内容はかなり重い。麻薬密輸は国によっては死罪が適用されるほどの重罪。つい先頃も中国で日本人が死刑になったばかりだ。そんなことを思うと「密輸の片棒は担いだが、運ばされたものが麻薬とは知らなかった」という理由で1年の刑で済んで無事帰国できたジョンヨンは運がよかったといってもいいくらいです。
しかし、だからといって、国外で犯罪容疑者となった自国民に対し、国が何もしなくてよい、ということにはならないだろう。言葉も通じない国の刑務所で、自分の身に何が起こるのかもわからず、通訳もつけてもらえないままで判決を待つことの絶望感は計り知れないんです。
映画では、駐仏大韓民国大使館の職員のとんでもない勤務ぶり、警察の無能、フランス人の刑務官の非道など、権力を持つ側のダメさ加減がイヤと言うほど描かれる一方、ジョンヨンは一人の平凡にして愚かな主婦であったということで、その無垢さが強調される形となります。
大使館や通商外交部の役人たちは「犯罪者に税金は使えない。世論が許さない」とうそぶくが、インターネットを通じて市民の間には「ジョンヨンを救え」というキャンペーンが広がります。
実際には、TVのドキュメンタリー番組が放映されて国民がこの事件を広く知るようになったのは、彼女が釈放された後のことで、視聴者の反応も賛否あったようなのだが、こういう設定にしたところに、市民の良識に期待を寄せるパン・ウンジン監督のメッセージがあるように思います。 ”

ザ・テノール

“まず、冒頭から豪華なオペラシーン。舞台、衣装など見応え十分の上、チェチョルが歌うシーンはすべて本人の歌声を使っているのでその美声をたっぷり聞くことができる。成功の絶頂からの挫折、そして復帰へのつらい道のり、国を超えて結ばれた男と男の絆。最後は自然と涙がわき出てきた。
難をいうと、主役のユ・ジテにあまり魅力がない。やはり口パクだと全身から響き渡るように声が出ている、というわけにはいかないです。
伊勢谷友介はよかった。英語のせりふが多いが、さすが英会話学校のCMに使われているだけあって、とても自然でうまいです。
新人社員役の北乃きいはかわいかったけど、とってつけたような役かな。ヨーロッパ勢の脇役もいっぱい出ていて、オペラ制作の舞台裏もちょっと覗けます。
コンサートシーンでは、本職の歌手の人も多数、出ていたんだろうけれど、クレジットが読み切れなかったです。
政治的に冷え切ったこういう時期だからこそ、日韓合作のこういうドラマ、それも実話というのは見る人を温かい気持ちにさせる。その価値は大きいのだけれど、この題材で、TVの感動ドキュメンタリーを超えられるかというのがなかなか難しいところ(実際、彼の話は何度もドキュメンタリーとして取り上げられてきたようだ)です。 ”

レッド・ファミリー

“夫婦と高校生の娘、そして夫の父。一見したところ、仲むつまじく、礼儀正しい中流の一家。しかしその実の顔は北朝鮮から韓国に送り込まれたスパイです。
彼らが家族を装って暮らす住宅地の隣家は、夫婦と高校生の息子、そして夫の母という似たような家族構成ながら、つまらないことで喧嘩が絶えない。
スパイの4人は、家族らしくふるまうのは職務上の演技、一歩、他人の目の届かない屋内に入れば、厳格な上下関係と規律の支配する世界です。
しかし、韓国で暮らし、隣人一家との家族ぐるみの付き合いに巻き込まれるうちに、彼ら自身にも変化が起きる。
資本主義の韓国の文化を肯定的に受けとめるようになり、また、疑似家族である同志への思いやりが生まれるのだ。しかし、それが裏目に出て窮地に陥る。失態の埋め合わせとして新たな特殊命令が課され、彼らは隣の一家を誘って、ある島に一泊のキャンプに出かけることとなる。
監督はイ・ジュヒョン。脚本はキム・ギドクで、彼らしい奇抜な設定とブラック・ユーモアあふれる展開。『プンサンケ』でも見せた南北の対立を独特の視点から鋭く突くというスタイルは変わらないんです。
しかも、劇中、北朝鮮の「夫婦」がそろって映画館に「プンサンケ」を見に行くシーンまであるのはご愛敬です。
また、一家の上司に当たる男は小さな町工場の経営者に化けて潜入している。この町工場がキム・ギドクの『ピエタ』の舞台となった工場の風景と重なります。
キム・ギドク作品の持つ残虐性や強烈さがある意味、苦手でもある(でも、一見の価値はあると思っている)私には、比較的見やすい映画ではあった。 ”

マンガ肉と僕

“一浪して京都の大学の法学部に入学したワタベ(三浦貴大)は、おとなしく、人の頼みを断れない性格です。一般教養の「ジェンダー論」の授業で隣の席に座った巨大デブの熊堀サトミという女子学生と親しく口をきくようになったところ、定期試験の終わったその日にアパートに押し掛けられ、そのまま住みつかれてしまう。むさぼるように肉を食らい、太り続けるサトミ。生活費にも事欠くようになったワタベは料亭でアルバイトを始め、そこで同じアルバイトの専門学校生、菜子(徳永えり)に出会う。菜子は、最近、彼氏と別れたばかりだった。
3年後、ワタベは菜子と同棲中。司法試験を目指す学生のゼミ合宿で年上の院生さやか(ちすん)と出会います。
そして、さらに5年後・・・。
ワタベをとりまくサトミ、菜子、さやかの3人の女性とワタベとの関係は対照的。ストーリーはワタベを中心に進むが、どうしても目がいくのはそれぞれに個性的な女性たちの方だ。人はなぜ他人にどう見えるかを気にするのか?また人の外見が気になるのか?という問いが繰り返し形を変えて出てきたり、ワタベが相馬町の出身であるという設定、サトミの実家の複雑な状況、二人が出会うのが「ジェンダー論」の授業で従軍慰安婦問題が取り上げられているなど、杉野監督らしい企みがそこここに見えます。
女性たちに振り回されておたおたするワタベはそれだけでおかしいです。”